みなさん、こんにちは!

今回は「ダブル・ファンタジー展」体験レポート第3弾です!

以上、これまでの「ダブル・ファンタジー展」体験レポートのリンクです。

「ジョンの英国国民保険サービス眼鏡1966年」

1967年ビートルズ8枚目アルバム「サージェント・ペパーズ」発売。

今回はこの続きを見ていこうと思います。

それでは、行ってみましょう!

年代順に見るジョンとヨーコの軌跡②(ベッド・ピース)1969

続いて「TWO VIRGINS」と題されたコーナー。

二人が結婚、入籍した1969年から。

この二人の裸のモノクロ写真をジャケットに使用したアルバム「Two Virgins」(トゥー・ヴァージンズ)が1968年に発売。

「ジョン・レノンとヨーコ・オノ」名義で初のアルバム。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベッド・イン

ベッド・インBed In)は、1969年3月と6月に行われたジョンとヨーコによる「平和活動パフォーマンス」

BED PEACE starring John Lennon & Yoko Ono(1969)

1969年6月1日には、カナダ、モントリオールのクイーン・エリザベス・ホテルに様々な有名人が部屋に招かれ、レノン初のソロ・シングル「平和を我らに」(プラスティック・オノ・バンド名義)のレコーディングが行われた。

Give Peace A Chance.(Ultimate Mix,2020)-Plastic Ono Band

https://ja.wikipedia.org/wiki/平和を我等に

「平和を我らに」レコーディング時に実際に使用された、ギブソンJ-160Eアコースティックギター。

実際にジョンがベッド・インで、ギブソンを弾いている画像。

「みんながいなくなってから、美しい満月をジョンと二人でベッドからずっと眺めていたのを今でも覚えているわ」ーヨーコ

年代順に見るジョンとヨーコの軌跡③(反戦運動)1970〜

ヨーコの娘のキョーコを連れて、バハマ諸島に向かう二人。

ヨーコは1963年6月6日にアメリカの映像作家アンソニー・コックスと結婚。(ヨーコは以前にも日本人作曲家・ピアニストの一柳慧と結婚歴があり、この時点で結婚は二度目)

1963年8月8日、アンソニーとの間に娘「キョーコ」をもうける。

バハマ諸島で<ベッド・イン>を行う予定だったが、そのままカナダに向かう事になる。(ジョンのイギリスにおける大麻所持による逮捕事件により、アメリカへの入国許可が下りなかった)

1971年の夏にキョーコの親権を取り戻すため、アメリカに渡った。(アメリカ入国の許可が降りた)

1970年から混沌とした時代に呼応するように、ジョンとヨーコは求心的政治運動に関与するようになる。

Power To The People.(Ultimate Mix,2020)-John Lennon.1971

創作においても多くの作品が生まれた時期であり、二人の作る楽曲には政治が色濃く反映された。

1971年ジョンの誕生日10月9日、シラキュースのエヴァーソン美術館で『これはここにはない展』(ヨーコの回顧展)が開催。

『THIS IS NOT HERE』(「これはここではない展」)のポスター。

1972年アメリカ大統領選挙戦で、ジョンとヨーコはジェリー・ルービンとアビー・ホフマンを含む仲間と共に民主党候補のジョージ・マクガヴァンの支持にまわる。

しかし、ニクソンが投票の60%を獲得して勝利する結果に。

選挙に勝利する一方で、また政権を脅かすウォーターゲートのスキャンダルが差し迫ると、ニクソン大統領のレノン夫妻への関心は薄れていった。

国外退去裁判の真っ只中だったこともあり、二人は急進派の仲間たちと距離を置くようになる。

ジョンのアメリカ軍シャツ

ジョンとヨーコは反戦の証として独自のミリタリーシック・スタイルを考案し、1970年代初期の抗議運動や慈善コンサートの多くで着用した。

※ちなみにヨーコの前の夫との間の娘「キョーコ」の親権問題は?ー

「程なくヨーコは娘の親権を放棄した。母と娘は全く会えないまま長い年月が過ぎ去った。

キョーコが20代になり子供を産む時になってヨーコに連絡を取った。それは、キョーコが「子供におばあちゃんとの接点がないのは不憫だ」と思ったからだという。

こうした経緯もありヨーコが娘のことを公に語れなかった年月が長かったので、人々にはヨーコの子供はショーンのみと勘違いされがちであるが、ジョンの死の後は、コックスやキョーコと親しく連絡を取りあっているという」

その後のジョンとヨーコの関係とジョンのソロ音楽活動の変遷

1972年アメリカ大統領選挙当日は、ジョンとヨーコ二人にとって個人的にも政治的にも散々な夜だった。

ニクソンの当選に憤慨したジョンは泥酔し、別の女性と別室に閉じこもってしまった。

ヨーコは一人傷つき、屈辱を受けた。

1973年11月21日、「ハリウッドの吸血鬼たち」飲み仲間の通称。

ハリー・ニルソン、アリス・クーパー、ニッキー・ドレンツとジョン。

歌手のアン・マレーとともに。

1973年から1年3ヶ月に及ぶ期間、ジョンとヨーコの別居生活が始まる。

別居の原因は、

  1. 支援していた政権が破れたこと
  2. ジョンと付き合い始めたあたりから始まった、ヨーコへのバッシングに対するストレス。
  3. ジョンの浮気

ヨーコはニューヨークに残り、ジョンはロサンゼルスへ。

愛人となったメイ・パンとともにロサンゼルスのマンションで同棲生活を始め、ポールやリンゴ、ハリー・ニルソン、ザ・フーのキース・ムーンらと過ごした。この時期には、前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンと再会を果たし、ビートルズのメンバーとも交流した。

この期間に、

1973年「マインド・ゲームス」Mind Games リリース

1974年「心の壁、愛の橋」Walls and Bridges リリース

このアルバムは、ローリング・ストーン誌でレノンの最高傑作と評価され、「イマジン」以来、ソロとして2作目の全米1位を獲得した。

Walls and Bridges John Lennon CM

このアルバムのCM(30秒)ではリンゴ・スターがナレーションを担当し、最後にレノンが「Thank You, Ringo」とお礼を述べている。

Whatever Gets You Thru The Nights.John Lennon

エルトン・ジョンと競演した「真夜中を突っ走れ」は、レノンにとって初の全米ビルボード誌上No.1シングルとなった(ワールド・アンド・レコードチャートではイマジンがNo.1をすでに獲得していた)

#9 Dream.John Lennon

セカンド・シングル「#9 Dream」も全米で9位のヒットとなり、数字「9」をラッキー・ナンバーとするレノンが喜んだという。

Elton John and John Lennon Live at Madison Square Garden in 1974

「この曲(「真夜中を突っ走れ」)が1位になったら、エルトンのコンサートにゲスト参加する」と約束していたジョンは、1974年11月29日、マディソン・スクエア・ガーデンのエルトンのコンサートに飛び入り参加。

その日、客席に来ていたヨーコとの復縁のきっかけとなった。

今回はここまでです。

次回も「ダブル・ファンタジー展」体験レポートの続きです。

それではここまで読んでくださって、ありがとうございました!

またすぐ、お会いしましょう!

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